
江戸の町は、人口100万人を超える大都市でありながら、安定した水供給を実現していました。その背景には、国の史跡(国指定史跡)に指定される「玉川上水」や、玉川上水と合わせて江戸の二大上水と呼ばれる「神田上水」など、高度な水道インフラの存在があります。
上水とは、水道の中でも特に飲料水として使用できるきれいな水をさす言葉。本記事では、東京都水道歴史館への取材やその展示をもとに、江戸の上水の仕組みと役割をひも解き、現代にも通じる「水を活かす都市の知恵」を探ります。
「神田上水」から始まった水の都市・江戸
取材に応じてくださったのは、東京都水道歴史館で企画調査責任者を務める学芸員の金子智(かねこ・さとし)さんです。
「東京都内の水の歴史というと、やはり徳川家康が江戸幕府を開いてからが本格的な始まりと言えます。それまでは湧き水や井戸水の利用が中心で、『水道』と呼べるものはありませんでした。歴史館に収蔵されている資料などを見ても、徳川氏が政権を取り、まちがより良く大きくなっていくための仕組みとして、水を用いた都市づくりが行われてきた様子が伺えます。」

江戸城の築城とともに、まちの中では、当時はまだ海岸近くだった現在の日本橋や東京駅一帯を埋め立て、都市の拡大が進んでいきます。今のように鉄道や自動車はなく、船で物を運ぶことが多かった時代、まちの中には多くの水路が引かれ、江戸城周辺は海へとつながる入り口として便利な場所でした。
「台地の先端、江戸湾に面した高台に江戸城ができ、まちをつくるために周辺の土地の埋め立てが行われました。人が生きていくためには飲料水の確保が必須です。しかし、海を埋め立てた土地では、井戸を掘っても海水が混じった水しかとることができませんでした。江戸時代には水屋(※1)と呼ばれる職業もありましたが、急速に進む人口増加に対応するため、遠くから水を引いてくる水道を整備する必要があったのです。」
(※1)天秤棒で桶を担ぎ、各家庭に飲料用の水を売り歩いた商売人のこと

そうして最初に引かれたのが、神田川から取水した水を江戸の東北部エリアに届ける「神田上水」です。現在の文京区目白台に置かれた「大洗堰(おおあらいぜき)」で取水され、水路や地下の水道管を通じて各屋敷や共用の井戸に送られました。
大通りの地中に引かれた本管から、最後に屋敷や共用の井戸へ水を引き込む際は、木や竹の管を使って水を送る仕組み。江戸では、最も入手しやすく加工しやすい木材が主に水道管として使われました(木樋・もくひ)。水に強いヒノキやサワラ、さらに幕末になるとマツなどの針葉樹が使われています。同時期に上水整備が進められていた関西や九州では、豊富に採れる石材が使われている例や、一部陶芸が盛んだった地域では、製陶を用いた水道管も使用されています。
実際に使用されていた上水井戸。手前に置かれているのは木樋で、左側には、木樋同士を繋ぐ「駒の頭(こまのかしら)」も残っている 日本橋区内の神田上水樋筋絵図。網目のような線が管路で、街中に水が送られていたことがわかる(東京都水道歴史館提供) 「あとに作られた玉川上水に比べれば小規模ですが、神田上水は、全国的にもかなり初期に作られた上水として有名で、明治時代まで人々の暮らしを支えていました。町の人々の生活も、神田上水ができたことによって大きく変化したのではないかと思います。」
長屋など、複数の家庭で使っていた上水井戸 神田上水を含む江戸時代の水道インフラは、基本的にポンプを使わず、重力の力だけで水を送っているのが特徴です。水圧がほとんどかかっていないので地下の水を自然に地上へ押し上げることは難しく、地下を流れてきた水を井戸に溜め、桶を使って汲み上げる仕組みになっていました。もう一つ、近代水道との大きな違いは浄水をしない点です。
「今は浄化施設でろ過や沈殿や消毒をしてきれいにした水を送っていますが、江戸時代は、川の水をそのまま送って飲んでいました。水屋が販売していたのも基本的にはそうした水でしたから、浄水をするというシステム自体がなかったようですね。」
東京都水道歴史館の裏にある神田上水石樋(石製の水道菅)。江戸時代の遺跡活用・保存の観点から1990年にこの場所に移築・復元された
100万人都市を支えた「玉川上水」
江戸時代初期の神田上水完成以後も江戸の人口増加は続き、慢性的な水不足を解消するために1653年(承応2年)4月から開削されたのが「玉川上水」です。
玉川上水は、多摩川の「羽村取水堰(はむらしゅすいせき)」(現在の東京都羽村市)から水を取り、江戸の入り口となる「四谷大木戸(よつやおおきど)」(現在の新宿区四谷)まで、約43kmの距離を流れ、江戸市中に入ります。

「江戸の上水は自然流下方式でしたから江戸城に水を送るため、より標高の高い場所を求め、調査の末に行き着いたのが多摩川の上流だったようです。武蔵野台地の稜線に水路を掘り、徐々に標高が下がることで水が流れていく仕組みなので、すでに非常に高度な測量と土木技術が使われていたことがわかります。この武蔵野台地はもともと水に乏しい地域でしたが、導水路ができたことをきっかけに新田開発が進みました。今の多摩エリアが発展したのは、玉川上水が引かれたからとも言えます。」
1653年(承応2年)11月、玉川上水は、着工からわずか8ヶ月ほどで完成。1660年代以降に、玉川上水から枝分かれをする形でさらに3つほど新しい上水(青山上水、三田上水、千川上水)と、隅田川の東側にもひとつの上水(亀有上水)が作られましたが、それらは1722年(享保7年)に、幕府の命令によって廃止されています。

「ちょうどその頃は、8代将軍・徳川吉宗が新田開発を大々的に進めている時期でした。上水は飲み水などの生活用水の他に田畑の用水としても使われており、枝分かれしている上水に水を回すことによって、郊外で農業をしている人たちの使える水が減ってしまうことを避けたかったのでしょう。また史料を見ていると、標高差が足りなかったのか、そもそもの水の流れが悪いところもあったようです。」
もうひとつ、有名な話として残っているのが、室鳩巣(むろ・きゅうそう)という儒学者からの進言によって閉鎖されたという説です。室の主張は「江戸の町に水道を大量に作ると大火が巻き起こる」というもので、「地脈を分断したことで烈風が起きる」など風水の観点から閉鎖を進言したと伝えられています。
「意見書が残っているので進言のあったことは事実だとは思いますが、さすがに江戸中期ともなれば科学的な研究も進められていたはずですから、どこまで文字通りに受け止められたのかは疑問が残ります。ただ、特に吉宗の時代は火災対策が非常に重視された時代です。こうした進言が、今以上に重く受け止められた可能性はあると思います。」
江戸から現代までの歴史を伝える東京都水道歴史館
取材に伺った東京都水道歴史館は、こうした江戸時代の上水の成り立ちから現代まで、時代ごとの水道に関する資料展示を行っている施設です。古文書の読解や小学生向けの水の実験などさまざまな企画や講座も開かれ、多くの人に向けて水道の歴史を伝えています。館内は、一階に明治時代以降の近代水道の展示、二階に江戸上水の展示、三階にはライブラリーやレクチャーホールを備えています。


「東京都水道歴史館は、実際に水道管として使われていた木樋や上水井戸、古文書など江戸時代の貴重な展示物が見られる場所です。展示してある木樋は、千代田区や中央区にある遺跡から出土したものが大半ですね。木を分解する微生物は水っぽい土地では繁殖しにくいので、埋立地からは原型を留めた物が発掘されやすいです。」


神田上水と玉川上水は、明治時代になってからも使用されていました。そのため、江戸幕府が作った文書はそのまま明治政府に引き継がれ、さらに時代を超えて今も東京都水道局の所蔵品として残されています。
「当館では、江戸時代に参考書として作られた『上水記』という書物を保管・展示しています。江戸幕府の水道局長に当たる人物が記録した全10巻からなる古記録で、絵図などを用いて上流から下流までどのように水を引いているのかが書かれています。普段は複製品を展示していますが、年に一度、秋の文化財ウィークの期間中だけは実物が見られるチャンスです。」


上水記には、すでに武家屋敷や町家が多く集まる中心地での水道管の渡し方についても、詳しい説明が残されています。上水が川や堀を越えるための特殊な構造物として紹介されているのが「懸樋(かけひ)」と呼ばれる水道のための橋です。
「有名なのは、人工的に深く掘削された神田川を渡るためにかけられた『お茶の水懸樋』ですが、その美しい見た目は歌川広重や葛飾北斎の浮世絵にも登場するほど。残された史料から、江戸の当時も観光地としても人気だった様子が伺えます。『水道橋』の地名もこの懸樋から命名されました。」

館内には、江戸の長屋の再現空間もあります。
「当時のまちなかにあった一般的な長屋で、4畳半1間と1間半の土間が復元されています。土間に置かれた台所にはかまどがあって、今のような水道や蛇口はないので、桶や甕(かめ)に水を溜めて使っていました。各家庭に下水につながる水路があって、使った水はそこに流していたようです。とはいえ、今と違って部屋の中にトイレや風呂はありませんから、下水は雨水と生活用水を捨てるためのものでした。」


「江戸では、消防のために一定間隔で道路上にも井戸を掘るように、という命令が出されていました。ただ、井戸の水は地中にありますから、汲み上げて行う消火活動は結構大変だったと思います。それを解消するために近代水道ができたという側面もありますね。疫病の蔓延などで河川の水や木樋の使用に疑問の声があがり、『水をきれいにしよう』という意識が生まれたのも、江戸時代以降の近代化の一環です。」
かつて江戸の大通りに埋められていた木の水道管は、時代と共に鉄に変わり、浄水場やダムなどが建設されて、より安定して安全な水が各家庭に届けられるようになっていきました。

「江戸時代に生まれた自然流下方式で水を流す技術は、そのまま近代になっても活用されています。近代水道の要となった『淀橋浄水場』(現在の新宿駅西口一帯)があの場所に置かれたのも、自然流下の力が使える高台だったから。水道管の素材は変わりましたが、敷設などの技術には職人たちの技が活かされているように思います。そういうところで伝統が受け継がれているのかなと思います。」

蛇口をひねれば水が出る。この環境が実現するまでの間には、江戸時代から常に水と向き合い、工夫を凝らしてまちを築いてきた多くの人の存在があります。神田上水や玉川上水をはじめ、江戸の水にまつわる文化財や遺構は今も都内各所に残されています。ぜひ一度、身の回りの「水」に目を向けてみてはいかがでしょうか。
施設情報
名称:羽村取水堰
所在地:東京都羽村市羽東3丁目8番32号
関連サイト:https://www.waterworks.metro.tokyo.lg.jp/kouhou/meisho/hamura
名称:策の井(むちのい)
種別:東京都指定 旧跡
所在地:東京都新宿区西新宿1-6-1
関連サイト:https://www.kanko-shinjuku.jp/spot/-/article_354.html




