コラム

文化財を救うプロフェッショナル“文化財ドクター”の舞台裏・前編

2026.04.13

目次

文化財を救うプロフェッショナル“文化財ドクター”の舞台裏・前編

何百年もの年月を越えて、私たちの身の回りに存在している文化財。美しい造形や発色、文化財が文化財としてあり続けている裏側には、修復研究者や修復技術者など、豊富な専門知識を持って修復や保存に取り組む「ドクター」のような役割を担う人たちの存在があります。本記事では、東京文化財研究所 文化遺産国際協力センターと株式会社 修護(しゅうご)への取材をもとに、前編・後編にわたって、文化財を未来へつなぐプロフェッショナルたちの舞台裏を紹介します。文化財を守る現場でどのような判断や工夫が行われているのかを、実際に修復研究に携わる専門家の言葉を通してのぞいてみましょう。

東京文化財研究所|文化財を救うプロフェッショナル“文化財ドクター”の舞台裏
東京都台東区、上野公園のなかにある「東京文化財研究所」でお話を伺う

前編にご登場いただくのは、東京文化財研究所 文化遺産国際協力センター 技術支援研究室長の加藤雅人(かとう・まさと)さんです。

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文化財を支える研究拠点、東京文化財研究所

加藤さんが働く東京文化財研究所は、独立行政法人国立文化財機構という大きな組織の中にあり、国際的な調査や研究、文化財の保存・修復に取り組んでいます。

取材に応じてくださった加藤さん。「紙」について物理的・化学的な特性を研究する製紙科学が専門

加藤さん「組織自体は帝国美術院附属美術研究所としてはじまり、さまざまな変遷を経て独立行政法人になりました。研究所全体で文化財の保存と修復に関わるほぼ全ての分野を網羅しているのが特徴で、美術史やアーカイブの研究をする『文化財情報資料部』、修復材料や伝統技術に関して科学的な分析をしている『保存科学研究センター』、最近は、日本がリーダーシップを発揮して取り組んできた『無形文化遺産部』の分野も盛んです。製造技術や伝統芸能、例えば刷毛や紙を作る工芸技術、お祭りやコミュニティによって守られてきた地域のアイデンティティなどの重要性が見直されています」

加藤さんが所属する「文化遺産国際協力センター」は、国際情報の収集と研究、発信、国際機関等との連携などに取り組むセンターです。建築工学や材料の研究、壁画の修復など内容が専門的かつ細分化されているので、その時に在籍している研究員の能力を生かす形で取り組みを展開しています。

各国の博物館や美術館、図書館などで修復に携わっている方を対象にしたプログラムも実施

加藤さん「私の専門は紙に関する研究ですが、イクロム(ICCROM:文化財保存修復研究国際センター)と一緒に研修事業にも取り組んでいます。3週間ほど日本に滞在してもらって修復の技術を学ぶ、30年以上続く人気のプログラムで、10名の定員に対して昨年は170名ほどの応募がありました」

研修では、修復に必要な道具や材料についても学びます。プログラム内で紙すき体験をしたり、道具を作っている職人の話を聞いたり、文化背景を知ることも文化財保存のための大切なプロセスです。

「悪影響にならないこと」を前提により良い方法を模索する

文化財の保存・修復は、対象となる文化財に「悪さ」をしないことが大前提の考え方です。安心の素材や技法を用いて、安定した作業ができること。加藤さんたちの研究も、基本はそのために行われています。

加藤さん「技術は日夜進歩していますが、温故知新の多い世界です。例えば少し前に登場した合成樹脂。科学的な修復材料として世界的に注目を集めましたが、時間が経つにつれて縮みがでたり、丸まって壊れてしまったり、うまく取り除くことができなかったり。不具合が多くなったことで、1000年以上前から使われてきた日本の和紙が再注目を集めるようなことがあったりします」

古くから掛け軸などの修理に用いられてきた和紙。安全に直すことができ、修復してから時間がたった後の状態がわかるという点でも見直されている
(画像提供元:東京文化財研究所)

薄くて透け感のある和紙は、見る方の邪魔をせずに文化財を守れるメリットがあります。例えば古くからある本の修繕。表面に紙を貼って補強する必要がありますが、分厚い紙を貼ってしまっては肝心の本文が見えなくなってしまいます。そうしたときに、薄さ0.02〜0.03mm程度の「典具帖紙(てんぐじょうし)」など、薄い紙が好まれるのです。

加藤さん「海外の図書館、古文書館などで大量に需要があり、比較的安価な機械すきの和紙が重宝されています。国内外で必需品になっている和紙ですが、海外に正確な情報がなかったり、間違った使い方が伝わったりしていることがあり、『本場の日本で実物を見たい』『ステップアップをしたい』といった問い合わせも増えています」

文化財を救うプロフェッショナル“文化財ドクター”の舞台裏
和紙を貼る際に使われる木製の「糊盆」や種類が豊富な「撫でハケ」。道具が並ぶ台は、表具屋*1から譲り受けた作業台で、表面は漆加工がされている

*1 表具屋:掛け軸や巻物などの芸術品、障子や襖などの建具に使われる紙や布を糊で貼りつける表装を行う店。作業には大きくて平らな作業台が必要だが、それ自体が職人の手作業で作られる貴重なもの

加藤さん「紙は時間の経過とともに汚れが溜まりやすい素材ですから、洗える状態であれば洗ってしまった方が長持ちするんです。洗うための水もさまざまで、水道水やイオン交換水、超純水など、どれがどの作品に適しているのかは研究の対象です。汚れを取りすぎると白くなりすぎてしまって、洗う前の年代を重ねた色までなくなると作品の修復を行う現場の職人や所有者から不評なこともあります」

文化財が積み重ねてきた歴史、その時代にしか出せない色。日本特有の「わびさび」を重んじる文化もあり、修理の現場においては、必ずしも「オリジナルの状態」に戻すことが目標ではありません。

加藤さん「最近はデジタルでもとの色を再現できるようになりましたから、現物はなるべく現状維持で、古色*2を残して楽しめる時代になってきたと思います。作品ごとになにをどう残すのかという修復計画を立てていますが、所有者や技術者、研究者、文化庁の方など関係者が集まって話し合い、誤解されない文化財を残すことに注力しています」

*2 古色:建築物や工芸品などが日光や風雨によって色あせた様子になること、その色合い

「『古っぽく見える色は残して、汚れは取り除いて』と指示を受け、戸惑ったのを覚えています」と笑う加藤さん。

これからはじまる江戸時代の文化財修復、多種多様な品への挑戦

長く平和な時代が続いた江戸時代は、多くの文化が花開き、技術的にもさまざまな可能性が広がった時期です。鎖国をしているなかでも、陶芸品や郷土品、浮世絵版画などがコンスタントに海外に持ち出されていた記録が残り、加藤さんたちのもとにも国外から保存や修復の問い合わせが来ることもあります。

加藤さん「中南米で屏風や浴衣、着物や扇子が見つかっていたり、有田焼など焼物の破片が発掘されたり。カラフルでモダンな作風が好まれた浮世絵版画は、もしかしたら海外の方が多く残っているかもしれません。保存や修復の技術を伝えることもありますし、逆輸入的に教えてもらうこともあります」

文化財を救うプロフェッショナル“文化財ドクター”の舞台裏
昨今の気候変動に伴う害虫の繁殖など必要な知識も変化する。国や地域を越えた情報共有は欠かせない

絵画や掛け軸、浮世絵などの紙物は、ありとあらゆる表現や制作手法が試されていて「見た目だけでは、何が使われているのか、作品がどの程度のダメージを負っているのか判断し難いのが特徴」と加藤さんは続けます。

加藤さん「掛け軸などの修復は100年から200年に一度と考えられていて、ちょうど今は江戸後期の作品の修復がはじまったところです。その作品にとって初めての修復をする際は前例がない分すごくセンシティブで、怖さもありますね」

江戸後期は「ベロ藍*」など海外の材料が使われた作品も多く、これまでの修復方法や技術をそのまま使用して良いのかを見直す必要があります。まずは今の状態を細かに確認し、海外の修理事例や劣化事例も集めます。

*ベルリンで発見された合成青色顔料「プルシアンブルー」の和名。「北斎ブルー」や「広重ブルー」とも呼ばれ、江戸時代後期に輸入され葛飾北斎や歌川広重が愛用したことで広まった

「冨嶽三十六景・神奈川沖浪裏」には、ベロ藍が多く使われている 出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/
文化財を救うプロフェッショナル“文化財ドクター”の舞台裏
温度と湿度を一定に保つことができる装置で、「高温で多湿」や「低温で乾燥している」などの状況を作り、テストピースを入れて先々の状態を予想することも

加藤さん「合成樹脂のように短期で不具合が出れば別ですが、私たちが試した方法が正しいのか間違っているのか、極論を言ってしまえば、その結果が出るのは次の修復が行われる200年後です。修復の現場で和紙が重宝されているという話をしましたが、近現代の作品の修復の際はインクが化学反応を起こして変色したり消えてしまったり、ダメだった事例もあって難しさを感じます」

ベストを尽くし失敗も未来へのメッセージとして残していく

もとは農学部で、林産学として森からできるものの一環として紙の研究をしていた加藤さん。デジタルアーカイブやデジタルミュージアムが始まった2000年代、「デジタルコンテンツに原材料の情報を加えたい」という趣旨で文化財に関わる研究職の募集があり、この業界に足を踏み入れました。

加藤さん「私できますって、手を挙げたのが最初です。研究を通じて京都の博物館で文化財を修復される方と知り合って、技術者さんたちと情報交換をするようになって。その頃から保存や修復に興味を持つようになり、こちらの研究所に移ってきた経緯があります」

リートベルク美術館(スイス・チューリッヒ)で行った屏風や掛軸など日本絵画の状態調査(コンディションチェック)の様子。これまでに、アルゼンチンやキューバ、メキシコ、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ諸国など、多くの国で文化財の保存・修復に立ち会ってきた(画像提供元:東京文化財研究所)

加藤さん「2025年にアルメニアの公文書館に足を運んだ際には、和紙を参考に自国の植物で紙づくりをはじめたという話を伺いました。私たちの研修に参加してくださった皆さんで、事業の発展形として、アルメニア国内で安心安全な材料をつくることに役に立てたというのが嬉しかったです。

『昔』ってなんだか原始的なイメージがあるかもしれませんが、江戸時代の工夫の仕方は、今より複雑で緻密な計算がされていることも多いです。

絵画の技法はもちろん、道具の作り方や原材料の種類、紙の重ね方も順番も、一つひとつ計算がされている。科学者として素直に感動しますし、江戸時代に生まれたこうした技術が、現在も美術館や博物館で展示される文化財を支えているのだと感じます。」

100年後には「失敗だった」と言われているかもしれない加藤さんたちの研究。長い年月をかけて受け継がれる文化財においては、失敗も成功も全てが「学び」として昇華され、積み重ねられていくのが魅力です。

加藤さん「私たち日本人は、どうしても『失敗は良くないこと』と捉えてしまいがちですが、成長は失敗と成功の積み重ねでしか生まれません。私たちも先人たちの知恵や工夫から多くのことを学んでいますし、それも含めて未来に何かを残せる、というのが一番のやりがいです」

何百年、何千年先を生きる人、もしかしたら宇宙人に伝わる未来もあるかもしれない研究のおもしろさ。私たちが美術館や寺社で何気なく目にしている文化財の裏側にも、こうした長い時間軸での試行錯誤があります。後編では、加藤さんたちの研究をもとに文化財の修理現場を担う株式会社 修護を訪ねます。どうぞお楽しみに。

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